播磨国風土記の逸話
播磨国風土記とは、奈良時代に編纂された各国の土地や特産物・伝承について記された報告書「風土記」の中の一冊です。現在では原本が失なわれ写本が残るのみになっていますが、歴史的に大変貴重な資料であり、国宝に指定されています。土地の古老に話を聞いたそのままを記したとされる素朴でとてもかわいらしい伝承話が播磨国風土記の大きな魅力です。
砥川山(とがはやま)のおはなし
毎年10月、神様たちが出雲に集まる神無月、小畑天満神社の神様は出立の際、浅野の山の砥石で庖丁を研いで出雲に向かい、全国から集まった神様に手料理をご馳走する料理番をされるそう。一体どんなお料理を振舞われるのでしょう。是非食べてみたいものですね。
波自賀村(初鹿野)のおはなし
昔、大汝命(おおなむちのみこと)と少比古尼命(すくなひこねのみこと)という二人の神様がいました。ある日二人は屎を我慢して歩くのと、重たい粘土を持って歩くのと、どちらがより遠くまで行けるか勝負することにしました。何日か経ち、屎を我慢していた大汝命が「もう我慢できない」とギブアップし、同時に少比古尼命も「私ももう苦しい」と荷物を降ろしました。そのうち、大汝命が屎をした時に笹が屎を弾きあげて衣についたことから波自賀村(はじかむら)と名づけられた、と言われています。また応神天皇が瀬加から生野へ狩りに行った時、ここで多数の鹿の群れと出会ったことから初鹿野(はじかの)という名前になったという説もあります。
御敷岩のおはなし
猿田彦神社の左手にある細い小道を入っていくと大きな岩がせり出すように飛び出しています。足を投げ出して腰をかけるのにちょうどよさそうな岩なのですが、この岩の上でその昔大汝命(おおなむちのみこと)と少比古尼命(すくなひこねのみこと)が政の相談をしあったという伝説が残っています。
瀬加と星肆山(ほしくらやま)のおはなし
市川町の瀬加という場所は、昔「勢賀(せか)」と呼ばれていました。狩の際、獣を追い立てる役目をした人たちを「勢子」と呼びますが、その昔、応神天皇が狩をされ、追われて飛び出てきた鹿や猪を仕留めたという言い伝えから、この地は勢賀と名づけられました。また、瀬加には同じく応神天皇が、星が出るころまで狩を続けた、という伝承から「星肆山」と名づけられたという謂れも記されています。