「へぇ」がいっぱい!市川町の偉人内藤利八
安政3年(1857)2月6日 内藤林蔵・ゑい夫妻の長男として誕生する。幼少より学問を好み、菩提寺である長昌寺の寺子屋にて漢学を、中川医院(約300年続いた地元の診療所で平成23年に閉院となっている)の医師中川ト陽氏(7代目医師)に蘭語等を学ぶ。
「へぇ」その①
明治5年(1872)、利八16歳、小学校の校長先生に就任!
明治5年8月公布の「学制」により開設された尋常小学校の塾監に就任。現在でいう川辺小学校の校長職と思われます。
翌明治6年、17歳の時には東川辺村の保長に就任。今でいう区長に当たります。役場にも勤めて地租改正の仕事もしています。
明治7年、18歳で戸長兼学校係を拝命。現在でいうと川辺地区の区長会長兼教育長に当たります。
「へぇ」その②
明治14年(1881)、利八25歳、県会議員に当選! 副議長にも。
寺子屋の師匠であった岩崎兵三郎氏が立候補予定であったが突然病死され、岩崎氏から語学や近代政治思想の教えを受け継いでいた利八が立候補することに。夜遅くまでの猛勉強の末に当選。
「へぇ」その③
明治15年(1882)頃、あの大隈重信に将来性を見込まれ、可愛がられる。
当時の役職として、神東郡第三番学区学務委員・県農会員 同副会頭・神東神西両郡連合会議員 同議長・神東神西両郡農会員・第三高等中学校区内府県連合会委員・神東神西両郡蚕業組合長・地方衛生委員・徴兵参事員等を歴任。
「へぇ」その④
明治23年(1890)、利八34歳、国会議員(衆議院)に就任!
農民の皆さんの支持により国政に挑戦。対立候補は姫路の士族で、選挙運動員は「紋付羽織はかま・腰に刀」姿。農民代表の利八の選挙運動員は「着物・竹やり」姿で応戦。利八は危険をさける為に農家の便所に隠れたり、自宅に押しかけられた時には2階に隠れたりしたそうです。
この選挙戦に勝利し、第1回帝国議会議員(衆議院)に就任。以後、第2回・第8回・第9回・第10回の通算5期にわたり56歳まで国会議員として国政に尽力されました。
「へぇ」その⑤
明治20年(1887)、利八31歳、播但鉄道の発起人となる。
明治9年に整備された生野鉱山寮馬車道(通称:銀の馬車道)に代わって「飾磨馬車鉄道」を整備する出願を利八など8人の発起人によって県知事に申請・認可されました。
明治22年、馬車鉄道を蒸気動力に変更し、私設鉄道として会社を設立。資本金は180万円でした。(明治初期の貨幣価値で換算すると現在の約180億円)
利八は建設の立役者であり、日本の近代化のためにはなくてはならないもの、播但鉄道は播州・但馬の開発発展には欠かせないもの、山陽・山陰との連絡鉄道にすればどれだけ大きい恩恵があるかわからない、人々に必ず喜んでもらえるもの、と考えておられたそうです。ところが、いざ用地買収という段階になって、利八が最も頼りとする農民の猛烈な反対運動に出くわしました。「先祖から受け継いできた田畑は売れない」「汽車が通れば石炭の煙で稲ができない」「大きい音がするので赤子が起きる」「牛が子牛を生まない」「汽車の火の粉で火事になる」「生野鉱山の鉱石を船で運ぶ人夫の仕事がなくなる」等の運動があり、時には竹やりを持って自宅まで押しかけられたこともあったそうです。
鉄道は当初、市川の東側の辻川~屋形~粟賀~大山~猪篠~生野ルートが計画されました。このルートは姫路~生野間の最短ルートであり、土地も平坦でトンネルも峠の一か所を掘るだけで済み、運転時間も短く、駅舎も便利な場所にできる計画でした。しかし、川辺・粟賀・大山・猪篠地区の猛烈な反対運動に会い、鶴居・寺前・長谷・生野の西側ルートに変更されました。このルートは、市川の渓谷に沿って敷かれるため、石垣工事や鉄橋が多く、トンネルを四か所掘らなくてはならなくなり、巨額の工事費用が掛かることになりました。
「へぇ」その⑥
明治28年(1895)、利八39歳、播但鉄道開通!
明治27年2月工事着手。明治28年4月17日開通。飾磨~姫路~生野間の一番列車が生野駅から姫路に向かって出発しました。馬車や人力車では半日かかった道のりですが、蒸気機関車では2時間で着いたので人々に大変喜ばれたそうです。生野駅には、来賓150人・音楽隊・芸者さんたちのほか、但馬・丹波・丹後から大勢の見物人も殺到したそうです。
計画当初、和田山まで開通させて山陰鉄道と結ぶ予定で、生野~新井間の工事に着手したものの、工事が難航した区間が多く、莫大な負債と折からの不況も相まって経営が悪化。明治31年より利八が社長となり、明治36年5月31日に営業廃止、6月1日より山陽鉄道に営業を引き渡しました。明治39年12月1日より国鉄となっています。利八は播但鉄道の発起人であるため、総責任者として自宅等の総財産を抵当に入れ責任を果たされています。
「へぇ」その⑦
播但鉄道以外にも数多くの会社の創立に参画、「播磨の渋沢栄一」「電気王」と呼ばれる!
鉄道以外にも飾磨銀行・姫路商業銀行・播磨紡績会社の創立に参画。
明治38年(1905)、神戸・明石・加古川地方の向上への電力供給を目的として、姫路水力電気会社を設立。明治42年、南小田第一発電所・南小田第二発電所設立。これは現在の関西電力です。大正7年(1918)、山陽水力電気社長に就任。鳥取県智頭町芦津の地元からの反対で難航しましたが、大正12年に発電所が設立されました。これは「三滝ダム」芦津発電所、現在の中国電力です。また、山崎電灯社長・東播電気社長に就任されています。
「へぇ」その⑧
大正10年(1921)6月28日、65歳で病死。
晩年は姫路市野里のアパート暮らしでした。日本の近代化に伴う政治家・播磨地域の実業家・また教育者として偉大な功績を残されました。
参考資料 令和3年11月7日 いちかわ不思議発見講座 「郷土の先覚者内藤利八」資料より 東川辺区大通寺住職 去来川善隆