史跡・城山


市川町の史跡

市川町は古くは播磨国風土記にも登場する歴史と浪漫の町。

町内には播磨四国八十八カ所のお寺四カ所を含め、数多くの個性的な寺社仏閣が存在します。

是非じっくりと巡ってみて下さい。

播磨国風土記についてはこちら

 

 


市川町の城山

兵庫県南西部は、古代より播磨国として繁栄。また、戦国時代には播磨・備前・美作の国を有した赤松氏が繁栄し、支城・構居を300以上有するようになります。姫路城も支城の1つでした。

市川町にも数多くの支城・構居がつくられ、そこには赤松氏の家臣がいましたが、天正5年(1577)羽柴秀吉の播磨攻めにより、城・構居・寺院が焼かれました。

その際、市川町の支城・川辺城では中腹にて鉄砲隊が羽柴軍に応戦したと瀬加村村誌に記されており、市川町には城山にまつわる物語が数多く残っています。

支城・構居が消失してから400年あまりが過ぎましたが、今一度戦国時代に生きた武者達の物語と共に市川町の城山を散策してみませんか?

  • 支城…本城を守るように配置された出城・砦・陣屋のこと
  • 構居…敵の侵入を防止するために区切られた区画のこと

〇鶴居城

鶴居の城山は市川町鶴居の西に位置する標高433mの山です。別名稲荷山とも呼ばれる鶴居城は南北朝時代に赤松円心の孫・永良三郎則綱が築城し、大永2年(1522)に但馬山名氏が攻めた時に拠点となった「長良の城」が稲荷山城(鶴居城)と推定され、その後も赤松氏に敵対する勢力の拠点となったそうです。逸話では敵が攻めてきても滑って登れないように竹の皮を敷いたが、下から火をつけられ焼失したとも言われています。(参考文献・「兵庫県地名辞典Ⅱ」)

平成20年に城山登山道が整備されてからは、元旦に「初日の出」登山、11月上旬に「つるい城山ハイキング」を行っています。天気が良い日には頂上から播磨灘・明石大橋・淡路島・四国まで眺望することができます。約1時間程で登れますが、10数分で登った中学生もいるのだとか…!

 

〇飯盛山城

飯盛山城は市川の東岸に位置しており、西岸の鶴居城と対になっていて、飯盛山城は市川中流の要所をおさえていました。近くにある田原では、嘉吉元年(1441)嘉吉の乱の後、山名氏の軍勢が攻め込み赤松氏との激しい戦いがありました。1579年ごろより赤松家家臣高橋四郎太夫の居城となっています。

頂上からは鶴居・谷の城山が見渡せます。

※冬場以外の登山には毒蛇に十分注意してください。

 

〇谷城

中世戦国時代、赤松信濃守範の七男・永良三郎則綱によって築城された谷城は、永禄から天正初めの縄張り技術が確認できます。山頂には本丸や井戸跡などの遺構が残っています。

谷城へは麓の大歳神社境内より登ることができ、距離は約3km程でハイキングコースとなっています。つどいの道・どんぐりの道・花の尾根道・地獄道・参詣道といろいろな道があり、それぞれに違った景観を楽しむことができます。横倉山観音堂や四国八十八か所霊石碑群など、歴史にゆかりのある景観を見ることもできます。

また、大歳神社の境内のムクノキ大木に群生している「フウラン」は原生林に生息する貴重な植物であり、町の天然記念物に指定されています。

 

〇川辺城

川辺城は、文和年間(1352~1356)赤松幕下大野弾正忠により築城されました。約7km離れた恒屋城(姫路市香寺町)にのろしを上げる役割があったとされています。また、市川町に残る瀬加村村誌には、川辺城の中腹にて鉄砲隊が羽柴軍に応戦したとも記されています。2019年3月に登山道整備が完了し、道中3カ所には木製ベンチも置かれています(所要時間片道40分程)。谷をはさんだ東川辺の大通寺の裏山からは、川辺城が望めるスポットがあり、片道20分程度の登山ルートとなっています。

 

〇瀬加山城

嘉吉年間(1441~1443)より築城され、赤松氏の一族・太田道祖が居城とした瀬加城は、(麓からの高さ)約100mの小規模な山城であるとされていますが、山頂には壇跡や敵の攻撃を封じる畝状堅堀(うねじょうたてほり)の跡が見られます。道が狭い登山道なので歩きやすい靴で!(所要時間片道15分程)

瀬加城は落城の際、城主以下わずか70名で、討ち死に覚悟で敵陣に飛び込んでいった勇姿が伝えられています。

天正6年播磨攻めの際、城主以下わずか70名「門を開いて切って出よ。岡部の武士の働きを後の世に語り草に伝えるも死出の誉れ」と最後の盃を取り交わし喊声あげて群がる敵の真っただ中へ切って出て行ったと記載されている。

瀬加城落城後、霊の弔いにと稲荷神社が建てられた。

平成18年には老朽化に伴い近くの神社に合祀され、今では十柱神社に祀られている。

(瀬加村村誌参照)